時の話題 「国境のまち稚内」

 稚内市の歴史を辿ることは「国境のまち」としてどう形成されてきたかを考える作業でもある。宗谷海峡を望むこの地は、江戸期に松前藩が宗谷場所を設け、アイヌの人々との交易と北方警備の拠点として歩みを始めた。厳島神社や北門神社に残る古い社殿は、その時代の記憶を伝えている。19世紀には間宮林蔵や松浦武四郎ら探検家が宗谷を起点に樺太へ渡り、北方の地理的理解を広げた。間宮が樺太を「島」と確認した事実は、日本の北方認識を形づくる意味で重要なことだった。探検の歴史は、単なる地域史ではなく、日本の領土観や対外認識の形成にも深く関わる。
 明治期に行政の中心が宗谷から稚内へ移ると、港湾整備や鉄道敷設が進み、稚内は近代的な交通拠点へと変貌した。日露戦争後に南樺太が日本領土となると、稚内は本土と樺太を結ぶ玄関口として急速に発展し、稚泊連絡船の就航は国境を越える人と物の流れを支える象徴的な出来事になった。戦後は北洋漁業の基地として繁栄したが、200㌋規制によって漁業は大きな転換期を迎える。
 そこから稚内は観光酪農、再生可能エネルギーへと産業構造を変化させてきた。最北端という地理的条件は、不利であると同時に独自の価値でもあり、サハリンとの交流再開など国際的な役割も期待されている。
 稚内の歴史は、厳しい自然と国境という緊張を抱えながらも、自らの可能性を模索し続けてきた軌跡である。北のマチが持つしなやかな強さは、今後の地域社会のあり方を考える上でも示唆に富んでいる。(伊藤康生)