時の話題 「北防波堤ドーム②」

 終戦後、樺太から引き揚げる日本人は42万人もいた。1945年8月23日の最後の連絡船「宗谷丸」に乗れず樺太に止め置かれた人が4700人もおり、その時の福井船長は心を鬼にしタラップを外したという。
 稚内プレスの創刊者である前田彰も引き揚げ者だった。敷香(ポロナイスク)で「公憤」という新聞を発行していた。誰もが辛酸を舐めた引き揚げ者の中には後の大横綱大鵬こと納谷幸喜少年もおり稚内から陸路、母親の故郷弟子屈に向かったという。その時の大鵬一家の稚内上陸記念碑がドーム前の公園の一角に建てられているのは皆さん承知の通りである。
 その後、ドームは利礼航路の発着地、石炭貯蔵場などとして利用されてきた。
 70年(昭和45年)にもなるとコンクリート剥離に伴う落下が起き危険な状況になったことから「解体論」出るも樺太航路を支えマチを発展させた象徴的建造物であるとして部分修復が何度か行われ全面的改修も78年~80年までに施工された。
 今は冒頭の読者の声のよう市民憩いの場だけでなく各種イベントやコンサートなどでも活用され、宗谷岬の日本最北端の地の碑同様、稚内と言えば北防ドームも、市民ばかりか観光客に語られ稚内観光の象徴的存在になっている。
 古代ローマ様式回廊の日本に類を見ない建築物は旅情を誘い観光客にとってロマネスクそのものであり京都や奈良など日本古来のものとは別格の異彩を放つ。「この町に住んで良かった」と思わせる歴史的建造物は市民の誉れそのものだ。