創刊2万号の道程 代表取締役 工藤 充

 今、「よくぞ此処まで」との感慨に浸っている。
 過日の「時の話題」で紹介したよう小紙は戦前、樺太の敷香(現ポロナイスク)で「公憤」という新聞を発行していた筆者の岳父に当たる前田彰氏が日本に引き揚げ数年し、当時、経済界のドンだった瀬戸常蔵氏らの支援のもと創刊された。
 瀬戸氏ら経済界重鎮は稚内市政を憂い、前田氏に白羽の矢を立て硬直化する市政を軌道修正し公正なマチづくりをするよう期したと側聞している。
 当時は西岡斌町政・市政の頃であり、連続8期32年間もの市政を担った浜森辰雄市長が登場する昭和34年をもってして市政刷新という役目を終えたが、1カ月50円という破格に安い購読料も相俟って購読者数を伸ばしたのだった。
 浜森市政も長期に及ぶと綻びが生じ、前田氏を引き継いだ編集者による市政批判というのか、市民に寄り添う紙面づくりは敵も作ったが市民の喝采を浴びたものだった。
 筆者が入社した頃には大韓航空機撃墜事件や日東丸の海難事故があり、国鉄民営化、沖底漁船の第2次減船等々で人口は往時から2万人以上減ってしまい食品スーパーやコンビニの進出により所々にあった個人商店は廃業してしまうなど、経済パイの縮小が目につくようになった。
 政界では市長を連続8期務めた浜森氏が敦賀一夫氏に敗れ、その後、颯爽と登場した横田耕一氏(在任3期)の後を継いだ工藤広氏(現在3期目)によって安定した政治は行われているものの、新カーリング場建設での市民からの小紙への投書(反対・賛成含め150通ほど)などから軌道修正を迫られ計画変更を余儀なくされ今日の建設に至った。
 一口に2万号と言っても市長や経済界重鎮の事だけでなく市民に寄り添う編集方針を貫いてきた70年間といえ、この姿勢は若い社員にも受け継がれているものと信じているが、読者の皆さんの支えがあってこそ小紙の将来がある。
 社会の木鐸としての使命を忘れることなく、批判ばかりでなく提言して行く所存であり、今後のご愛読をお願いするものです。

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