時の話題 「稚内のアイヌ」
読者の方から稚内に居住していたアイヌの人達の事について生活や文化だけでなく住宅(チセ)など関係品を展示する施設として稚内副港市場の一部を使ったら如何か―などと問題提起されたこともあって10日、市教委の学芸員斉藤譲一さんに御教授いただいた。
稚内の名前が「ヤムワッカナイ」(冷たい水の川)に由来するのを読者の皆さんも御存知かと思うが勇知(ユウチ=蛇が多く居る所)、クサンル、ウエンナイ、ノシャップなど地名・川名のほとんどがアイヌ語を起源としている。
アイヌの人達は清浜や宗谷、声問などに数十人規模で部落を形成し旧石器時代の1万年も前から住んでおり、13世紀になり竪穴式住居(チセ)に住みコタン(村)として社会を構築していた。
斉藤学芸員によるとアイヌの文化は無文字の口伝えの口承文化のため歴史など綴った文献などなく、その最後の継承者が1963年没した柏木ベンさんで第二清浜に住んでいたそうである。
柏木さんは〝北海道先人カード〟に登場する人物の一人であり晩年失明するも稚内(宗谷地方)のアイヌ文化を語り伝えてきた。
今年5月、白老町にウポポイ(アイヌ民族共生象徴空間)がオープンするが、アイヌは道内各地に住み生活し社会を作ってきており稚内でも稚内公園の北方記念館に関係する物を展示されるも数は少なく今は地名・川名に記録として残る(アーカイブ)だけだが、先住民として稚内に居たのは事実であり、手探りでも市教委には歴史の一こまとして集録してはいかがか。