時の話題 「官主導でなく」

 開催された札響の演奏会と中止されたみなと南極まつりの違いは人流と言われる人の動きだったのだろう。感染者が著増し、これ以上の感染拡大を防ごうとする南極まつり実行委の中止判断は遅きに失したのは「感染拡大にあるも日が経てば(減少に転じ)好転するやも」との親心による所が大きく、札響は同じく感染拡大しながらも数百人(実際の入場者は300人だった)が対象となり感染対策を徹底すれば不測の事態が起こり得る確率は小さいだろうとの判断からであろう。
 みなと南極まつりは数千、数万人の人が動くので「予防策を講じれば」などとのレベルでなく、中止決定から数日経ち冷静に考えてみると、宜なるかなと今は考えられる。
 中止直後の小欄に手一杯、反対論を打ちまけ小紙のスタンス含め決定ちゅうちょの論評を書き記したが、意外に冷静だったのが一般市民で、小紙読者コーナーへの投稿も全くなく、個人的な肌感覚だが「マンネリ化したまつりに元々関心なく感染しない方が大事なこと」とする虚無感が入り混じった感情が市民に多かったのか。
 官主導のまつりが開催されようがされまいが、我々は感染せず生活と命を守ることの方が一番―と大方の市民が思ったのだろう。
 沼田町のあんどん祭りなど国内外の他の地区の夏イベントに比べ物足りなさは否定しようがなく、コロナ禍による3年連続中止という事態を奇貨にタイトル名を変えずに踊りを止め人を惹きつけるような出し物行列など工夫を凝らすべきでないのか。踏襲を捨て去る覚悟こそ今必要だ。

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