時の話題 「木鶏たりえず」

 この数年、テレビを見ていて感涙することがめっきり増えた。子どもであれば感受性が強いということになるが、爺に感受性は似合わず涙もろくなったということだけである。
 とりわけ歌を聴いていると涙が出る。先日火曜夜のNHKを見ていると夏川りみさんが出演しており「あすという日が」の歌唱には涙ぼろぼろ、秋川雅史さんの「千の風になって」も胸を打たれた。
 涙だけでなく感情の起伏激しく喜怒哀楽がはっきり出る性格なので他人とぶつかること多く、そうこうあって人間力を磨くに当たって精神論を目に止めるようにしており、とりわけ名横綱双葉山の残した語録の数々が胸中にある。
 双関は1912年に大分県に生まれた。5歳の時、吹き矢が右目を直撃し失明寸前までになるも角界入りし第35代横綱として前人未踏の69連勝を達成し、70連勝の夢が潰えた夜「我まだ木鶏たりえず」との電報を師に打った。木彫りの鶏のように全く動じることが無い闘鶏のごとく泰然とし動揺しない力士の究極の姿には未だ至っていないという意味合いがあったようだ。
 「後の先」はある種哲学的な「木鶏」よりは我々一般人にも相通ずるものがある。相撲の立会で対戦力士より少し遅れて立つも、かえって遅れた方が有利な体勢に持ち込めるという機先を制するのとは正反対の、正々堂々相撲をとれば活路は開けるものだという意味があったものと理解できる。
 不出世の大横綱さえ動揺なき安寧が無かったのだから市井の我々は推して知るべしといったところだ。

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