時の話題「朝日の謝罪会見」
世評には抗うことはできなかったのか。朝日新聞が今年5月の、福島第一原発事故での東電職員が現場から総撤退の記事を取り消し、社長と編集責任者らが謝罪する会見を行った。
同紙は戦時中の従軍慰安婦記事でも疑義があるとして問題視され、更には池上彰氏のコラム掲載を巡るすったもんだもあり揺れに揺れている。
全国紙として対峙する読売新聞はタブーともいえる朝日新聞非難を続けており、今回の福島原発の総撤退記事謝罪でも昨日の1面トップで載せ、他の面でも論評し非難の矛先を先鋭化している。
枝葉ながらマスコミとして新聞発行を続けている本紙も勿論、対岸の火事視できないこととし、読売など各紙面をつぶさに目を通しているところである。
報道は客観性が必要だと言われるが、原発と慰安婦記事には記者の思い込みがあり事実を粛々と伝えるということで問題があるとして、慰安婦報道については国家的なことであるのに朝日新聞の謝罪のあり方にも問題ありとされている。
報道は確固たる客観性がなければならないことは論を俟たないことであり、朝日紙の姿勢は看過できないことではあるが読売紙のように殊更ある意味、大上段に構え同じマスコミを叩くというのはどうであろうか。
確かに朝日紙の報道にはあまた疑念が生じるが余りに読売紙の批判は度を過ぎていないか。
個人的にも読売新聞を定期購読し、政治や経済事件・事故、そしてコラムを読んでいるが、読売紙だって結構右寄りの姿勢が濃く、客観報道という点では疑問もある。
新聞だってテレビだって映画だって作るのは人間である。そこにはどうしても色が出てしまうものだと思っており、今回の一連の出来事を考えるにつけ、人の考え方には改めて様々あり、否定するのでなく、看過でもないが許容することも大切だと思った次第である。報道人として考えさせられた騒動ではある。