時の話題 「中田豊彦氏逝去」

 市長も言っていたがまさに巨星墜つの中田豊彦氏逝去であった。
 中田組の社長と共に東利尻町(今の利尻富士町)議会議員を3期12年間務める間、公共事業によって会社の経営規模が拡大し稚内に進出。今の港2にある社屋の前の稚内進出時には、はまなす2に会社はあった。
 稚内に進出してきてからも勢いは止まらず豊彦氏自身は昭和60年1月に稚内建設協会長に就任し、62年5月には稚内商工会議所会頭にもなった。稚内経済界のトップである。
 若輩の筆者は中田氏と話することなく取材は褒章や叙勲の時くらいだったと記憶しているが、平成6年の敦賀市長が2期目をめざす市長選ではいち早く現職支持を表明し、敦賀市長2選の流れを作ったものだった。
 人柄は温厚で偉ぶる所は全くなく誰に対しても平等に接していたのはシベリア抑留という過酷な経験に根ざしており、石塚宗博氏が小紙の取材に答えていたよう尊敬すべき人物像ではあった。
 豊彦氏の死去によって稚内の今の礎役となった浜森辰雄氏(市長)、井須孝誠氏(稚内信金理事長)の3人とも鬼籍に入った。
 夫々、継承者はおり何も変わらないような感あるも、三傑には及ぶ筈はなく更にはその継承者の次の世代への不安はある。
 命には限りがあり人の死は致し方ないことなのだろうが、在りし日の中田さん、浜森さん、井須さんを偲ぶ時その偉大さには敬服し頭を垂れる。
 世代交替が進み次代を担う壮年・青年層が輩出されようとしているが傑出した人物は出てくるのだろうか。

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