朝の「おはようございます」との挨拶は人間社会にとって潤滑油であり、昨日、市役所前を歩いていると小社に出入りしている清掃業者の運転手さんに車中から大きな声で「おはようございます」と声を掛けられた。この運転手さん、小社の出入りの際の挨拶も気持ちいい人で、強面然とした顔付きに似合わず目に優しさがあり、小社の社員との遣り取りを端で聞いていても感じが良く、こう言っちゃ大変失礼なのだが、他の仕事の方がよいのでは―と余計なことまで考えてしまった。
 先日も自宅の近くを夕方散歩していると学校帰りのちょっとぽっちゃりした男子中学生から「こんにちは」と挨拶され返礼しては清々しさを感じたばかりだったので、つい小欄に書かせてもらった。
 稚内では何処の学校もきちんと挨拶できる運動をしており、子供によっては濃淡あるが挨拶することによって人として成長する縁ともなっている。全市的な子育て運動の恩恵なのであろうか。
 筆者は小学生だった50数年前に学校で挨拶の大切さを教わっている筈だが、当時は高度成長期に入るとば口で「挨拶できて何ぼのものか」とばかりに心技体の〝心〟を忘失したかのように挨拶を邪見にした自分がいたものだった。
 然して、そのような子供が成長しても立派な人間などなるはずなはなく今の自分があるようである。
 親の育て方もあるだろうし成長期の暮らし様もあるのだろう。挨拶をきちんと出来る人と出来ない人とでは自らは分からない差がどれほどあるものやら。礼節の大切さを知る。