時の話題「時の余白に」

 入社当時からしている新聞記事のスクラップをこのところ余程のことがない限りやることがなくなった。先日、家の中を片付けていたところ、スクラップはもとより何処にしまったかも忘れていた小中学校時代の写真が出てきて紅顔の美少年?ぶりに見入ってしまうほどであった。
 スクラップは相当数に及び、いかに懸命に仕事をしていたかを知る縁となり、普段、小社の若い人達に真面目に仕事しなさいとの小言が全くの戯言でもないとの思いを強くしている。
 今は体たらくな自分だが若い時分は一生懸命に生きて来たと自負しており、それが思い上がりでなくスクラップという形で目の前に現れたことに月日の流れを痛切に感じると共に「あと何年生きられるか」との思いも胸をよぎる。
 こんな事を言うと妻から「今から何言ってるのよ」と叱咤されるも、あの世に旅立つ日が来るのは間違いないことであり今からその心構えをしておかなければと思う。
 話を再びスクラップに戻し、今は事件・事象のものでなく7月26日の読売新聞「時の余白に」のように心に響くものを集めている。編集委員の執筆者芥川喜好さんのコラムは割合浮き世離れし好きな文章で必ず読むようにしているのだが7月26日には哲学者鷲田清一さんの読売新聞寄稿の一節が載っていた。
 「現代おとな考」と題した寄稿は「わたしたちの生きているこの社会は成熟した社会なのか、それともただの幼稚な社会なのか。責任ある人の幼稚なふるまいが通る社会は、皮肉にも成熟した社会なのかもしれない」などと書かれ、芥川さんの「洞察の深さに身ぶるいします」との評論にも敬服するものがあった。
 来週には盂蘭盆(うらぼん)を迎える。年に1回、現世に還って来るという祖先の霊に供え物をし冥福を祈るのだが、こちら側からは慰霊することで成仏できますようにとの気持ちもある。お盆は紋別に墓参りだ。

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